志賀潔が晩年貧乏だった理由

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f:id:crimeaclub:20080120220930j:image:left「志賀博士は、丸顔の小さなお爺さんだった。村夫子然たるもんぺいをはいていられたので、余計小さく見えた。自分で修繕した眼鏡をかけて、ポール・ド・クライフの『細菌の猟人』を読んでいられた。僕たちの突然の来訪を非常に喜ばれて、とっときの煙草などの封を切って、すすめられるのだった。病身の息子さんと、その奥さんと、三人のお孫さんが一緒に暮らしていられた。随分貧しい暮らしのように見受けられた。障子一面に新聞紙が貼ってあった。つまり、障子紙の代りに新聞紙を使ってあるのだった。だから部屋が重苦しく暗かった。僕は撮影の旅で、方々の農村も歩いたが、こんなひどい障子は初めてだった。志賀博士が明治三十年に赤痢菌を発見して以来、今日までに人類が受けた恩恵は、決して少なくない筈である。しかもここに、その発見者は、赤貧洗うが如き生活に、余生を細らせているのである。僕たちはひどく矛盾を感じないわけには行かなかった。博士は僕たちが所望したので、文化勲章を見せて下すったが、勲章というものは凡そ貧乏臭さのないものだけに、ボロボロの畳の上で見ると、その金銀のあでやかさも、何かそらぞらしいものに思えた。「自分の選んだ学問を通じて人類の福祉に貢献する事。それだけである。而して自分の五十年の仕事は貧しいながらその為の捨石にはなり得たであろう。これが私の自らひそかに慰めとする所である」と博士は「私の信条」に書いていられるが、博士のような人に対して、僕たちとして、それで済むわけのものでない。その日の夕暮れ、僕たちは博士一家の人々と、丘の上と下で、手を振りながら別れを告げた。お孫さんたちが、いつまでも小さな手を振っているのが、何か切なかった。やがて、それも松林の陰に見えなくなった。僕たちは、砂地の道をポクポク歩きながら、思い思いの考えに沈んでいた。」


(土門拳『風貌』より)


http://homepage1.nifty.com/namakemono/life2/siga.html


「ハンセン病については、当時論争があって「大学派」と言われる人たちは、国際的知見を認識していて、「伝染の難易の多少を考慮せず、強制的に隔離し取り締まるのは時代遅れ」とか、ハンセン病は「素質遺伝があるとか、健康な人、栄養のよい人には仲々うつらない、或種の癩(「神経癩」)は絶対に伝染しない」とか言っている。こうした主張した人は、青木大勇、太田正雄(木下杢太郎)、小笠原登などの学者たちでした。当時の京城帝国大学総長の志賀潔も『朝鮮』一九三一年三月号に掲載した論文で、「衛生上の改良及び食料営養状態の改善進歩が癩伝染の素質を減少し得る」と書いています。これに対して、むらた村田まさたか正太(大阪にあった療養所の外島保養院長だった人物)や、その師である光田健輔、その弟子たちがつくる「療養所派」の人たちは、ハンセン病は非常に危険な急性伝染病かのように言って、絶対隔離を主張しました。そして、彼らが、皇室を利用することによって、大学派の学者が療養所派に批判ができなるようにしたんです。


 「最高潮に達したのが、一九四一年一一月一四日と一五日、大阪で行なわれた第一五回日本癩学会の時です。その時、ハンセン病は隔離するほど恐ろしい病気じゃないと主張していた小笠原登が厳しく糾弾されていく。また、大島青松園長野島泰治は、小笠原の学説を隔離施策推進の立場から非難しています。」


滝尾英二 小鹿島 ソロクト ハンセン病補償請求が問うもの (『世界』2004年4月号所収)


http://www7a.biglobe.ne.jp/~takio/library/sekai200404.html


やっぱりそうだったのか、という感じ。


これで志賀潔は京城帝国大学を追われ(1931年)、晩年は不遇となったのだろう(私の推測)。


しかし、それでも本人は幸福な晩年を送ったと思う。


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コメント(14)

雑誌『朝鮮及満州』を読んで、志賀潔が京城帝大総長を追われた理由が判りました。
基礎医学者独特の無邪気な独断で、大学の多くの教員の反感を買い、総すかんで、辞職を余儀なくされたわけです。

コメントありがとうございます。
是非その雑誌を見たいものです!
コピーを送っていただけませんか?

ひょっとして医史学者の石田純郎先生ですか?
コメント、重ねてありがとうございます。
高橋功先生の本では、学閥にやられたと書いてありました。
ハンセン病に関する記念講演がきっかけで、追い込まれてしまった、と書いてありました。
たしかに志賀潔先生は基礎医学者ですが、どんなあやまちを犯したのでしょうか?
私は滋賀先生を尊敬しておりますので、是非storyを知りたいと思います。

確かに、石田純郎です。

京城帝大の日本人同窓会刊の『紺碧遥かに』に
開学記念日のらいとライ病の歴史講演に遺憾の
点があり、教授陣が徒党を組んで攻撃してきたと
志賀潔の甥、京城帝大在学中、が記載しているので、そのような理由かと思っていましたら、
医学部長時代から、志賀潔は嫌われていたようです。その理由は、彼の朝鮮に来る前の大学教員の履歴は、慶応大学での半年だけで、いきなり管理職になり、学校の運営のやり方やコンセンサスの得かたを志賀潔は知らなかったようで、上述の雑誌には、
学内の雰囲気を、「アンチ志賀熱」などと表現されています。

高橋功は、志賀潔の甥、
京城帝大出身です。

石田先生、ありがとうございます
ただ、私はまだ納得していません。

しかし、先生のおかげでぼんやりと当時の雰囲気がわかるような気がします。
志賀潔は浮いていたのでしょうね。完全に。

『朝鮮及満州』の記事を書いたのはどなたでしょうか?

それは東大系の方の誹謗中傷ではありませんでしょうか?

どうしてこんなに貧乏になったのか不思議に思い、「志賀潔」「貧乏」で検索して辿り着きました。

>志賀潔は京城帝国大学を追われ(1931年)、晩年は不遇となったのだろう(私の推測)。

wikiの志賀の項を見ると、1931年には60歳で、50歳定年の当時ならとっくにリタイアしている年齢ですし、それまでの経歴を考えると相当な資産を築いていて当然だと思います。

また、京城帝大の年金も相当な額だと思います。

よって、ブログ主さんの推測には納得できないのですが……。

それに、1944年の文化勲章受章、1948年の日本学士院会員 という経歴を見ると、少なくとも48年までは相応な生活レベルだったのではないでしょうか?
とすると、戦中戦後の混乱で資産を無くしたとも思えません。

投資の失敗、連帯保証人で債務を負った、詐欺にあった等、何らかの理由があるのではないかと思うのですが?

日本学士院会員にも年金があるようですね。
京城帝大と日本学士院会員の年金を合わせれば、息子が病気で無収入だとしても、6人家族で十分に中流生活をおくれそうなものですが?

たしかに戦災で東京のお住まいを亡くされたりされたようです。
しかし常識的に考えれば、資産があっておかしくないとろろです。経歴から見ても。
貧乏の原因は何なのでしょう?


岡山県小児科医会会報に掲載予定の記事の一部です。お求めの情報が含まれて居ます。
大きな大学図書館には復刻版が蔵されていますので、志賀潔学長在職中から1年後までのこの雑誌を読めば、お求めの情報が出てきます。


雑誌『朝鮮及満州』は、明治41年(1908)に京城で『朝鮮』と題して創刊された月刊誌(一時、月2回刊行)で、数年後に改題し、昭和16年(1941)の廃刊までに、合計398号が刊行された。総頁数は約4万頁で、最近、全巻が東京の皓星社から復刻・刊行された。
社主で編集長の襗尾春芿は、明治8年(1875)1月に岡山県和気郡片山町に生まれ、明治30年に東洋大学を卒業し、明治33年(1900年)に朝鮮に渡り、釜山、開城、大邱で日本語教師をした後、京城日本人居留民団課長として、京城第一高女、京城中学の開設に尽力した。明治41年(日韓併合の2年前)の創刊から、昭和16年に言論弾圧のため自主廃業するまで、総合雑誌『朝鮮及満州』を執筆、編集、刊行した。この雑誌には、京城の医療機関や高等教育機関、大学・専門学校の教授、医師・医学者に関する多くの評論や記事が、収載されている。

石田先生

ありがとうございます。
必ず調べます。
興味津々ですが、志賀先生に失望しないことを祈っています。
>昭和16年に言論弾圧のため自主廃業するまで

とありますので、けして権力におもねるような雑誌ではないようですね。いよいよ謎が解けるでしょうか...

ソウルへ行って、当時の文献を探して来ました。
志賀潔が京城帝大の開学記念日で、らい病に関する
どのような講演をしたのか。

状況証拠として、彼が雑誌に一般向けに出した記事がありました。
らい病患者への断種が常識だった当時、
らい菌は弱い菌なので、栄養改善や衛生の配慮で
防げるとした、今で言えばきわめて常識的な
意見を言ったために、京城の医学者の多くから
反感を買ったことがわかりました。

石田先生 ありがとうございます
今年もよろしくお願いします

こちらのほうは研究は全然進んでおりません

>

>今で言えばきわめて常識的な
意見を言ったために、京城の医学者の多くから
反感を買ったことがわかりました。

石田先生、やはりここがポイントですか?
志賀潔の人格に問題はなかったのですね?

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