「志賀博士は、丸顔の小さなお爺さんだった。村夫子然たるもんぺいをはいていられたので、余計小さく見えた。自分で修繕した眼鏡をかけて、ポール・ド・クライフの『細菌の猟人』を読んでいられた。僕たちの突然の来訪を非常に喜ばれて、とっときの煙草などの封を切って、すすめられるのだった。病身の息子さんと、その奥さんと、三人のお孫さんが一緒に暮らしていられた。随分貧しい暮らしのように見受けられた。障子一面に新聞紙が貼ってあった。つまり、障子紙の代りに新聞紙を使ってあるのだった。だから部屋が重苦しく暗かった。僕は撮影の旅で、方々の農村も歩いたが、こんなひどい障子は初めてだった。志賀博士が明治三十年に赤痢菌を発見して以来、今日までに人類が受けた恩恵は、決して少なくない筈である。しかもここに、その発見者は、赤貧洗うが如き生活に、余生を細らせているのである。僕たちはひどく矛盾を感じないわけには行かなかった。博士は僕たちが所望したので、文化勲章を見せて下すったが、勲章というものは凡そ貧乏臭さのないものだけに、ボロボロの畳の上で見ると、その金銀のあでやかさも、何かそらぞらしいものに思えた。「自分の選んだ学問を通じて人類の福祉に貢献する事。それだけである。而して自分の五十年の仕事は貧しいながらその為の捨石にはなり得たであろう。これが私の自らひそかに慰めとする所である」と博士は「私の信条」に書いていられるが、博士のような人に対して、僕たちとして、それで済むわけのものでない。その日の夕暮れ、僕たちは博士一家の人々と、丘の上と下で、手を振りながら別れを告げた。お孫さんたちが、いつまでも小さな手を振っているのが、何か切なかった。やがて、それも松林の陰に見えなくなった。僕たちは、砂地の道をポクポク歩きながら、思い思いの考えに沈んでいた。」
(土門拳『風貌』より)
http://homepage1.nifty.com/namakemono/life2/siga.html
「ハンセン病については、当時論争があって「大学派」と言われる人たちは、国際的知見を認識していて、「伝染の難易の多少を考慮せず、強制的に隔離し取り締まるのは時代遅れ」とか、ハンセン病は「素質遺伝があるとか、健康な人、栄養のよい人には仲々うつらない、或種の癩(「神経癩」)は絶対に伝染しない」とか言っている。こうした主張した人は、青木大勇、太田正雄(木下杢太郎)、小笠原登などの学者たちでした。当時の京城帝国大学総長の志賀潔も『朝鮮』一九三一年三月号に掲載した論文で、「衛生上の改良及び食料営養状態の改善進歩が癩伝染の素質を減少し得る」と書いています。これに対して、むらた村田まさたか正太(大阪にあった療養所の外島保養院長だった人物)や、その師である光田健輔、その弟子たちがつくる「療養所派」の人たちは、ハンセン病は非常に危険な急性伝染病かのように言って、絶対隔離を主張しました。そして、彼らが、皇室を利用することによって、大学派の学者が療養所派に批判ができなるようにしたんです。」
「最高潮に達したのが、一九四一年一一月一四日と一五日、大阪で行なわれた第一五回日本癩学会の時です。その時、ハンセン病は隔離するほど恐ろしい病気じゃないと主張していた小笠原登が厳しく糾弾されていく。また、大島青松園長野島泰治は、小笠原の学説を隔離施策推進の立場から非難しています。」
滝尾英二 小鹿島 ソロクト ハンセン病補償請求が問うもの (『世界』2004年4月号所収)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~takio/library/sekai200404.html
やっぱりそうだったのか、という感じ。
これで志賀潔は京城帝国大学を追われ(1931年)、晩年は不遇となったのだろう(私の推測)。
しかし、それでも本人は幸福な晩年を送ったと思う。
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